チベット・コード 第二章 ダワヌツォの智者 12

徳仁翁は笑いながら、左指で自分の眉間を指し、続いて胸口で印を結ぶことで、方新が知恵者であることを表しながら言った。

「現在のいわゆる四方廟はすでに後代の人々が先人の遺した詩集や歴史書から得た曖昧な概念で、ただチベット密教ニンマ派の教義の中にのみ、このような名称が残っているにすぎない。そのためその後にできたカギュ派もサキャ派なども根拠が弱いと言い、その四方廟が存在するという説をすでに捨て去ってしまった。そしてニンマ派の四方廟という言葉の語源はボン教にあり、そのため他の教派がこの説を受け入れられないというわけだ。事実上、我々の祖先が言う四方廟は、大法王が悟りを得て、教義を広めた際、聖山四面の四つの廟に留まったわけだ。法王は極東、極西、極南、極北という言い方を取らず、仏教の教義に従い、卍の折れ曲がる所を採用した。ニンマ派の記載では、それぞれタンルカンブ(当惹貢布)、ドゥグラカン(徳格拉康)、ベンリザンソン(本利蔵松)、サグラム(色果拉姆)と呼ぶ。私の推測ではこの四つの名称は西北の●真格傑寺(●は糸へんにヰ)、西南の格薩拉康寺、東北の布曲、東南の色吉拉康を代表している。そしてグーバ族が代々守護してきたのは、その正統四方廟なのだ。」

 

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