蘇州の嫘祖

 国慶節休暇(10・1~10・7)を利用して、蘇州旅行しました。蘇州シルク博物館を見学。嫘祖(れいそ)像がありました。嫘祖は黄帝の妻で、古代中国人に養蚕と紡績を教えたとあります。博物館と同じ通りに長興楼というラーメン屋があり、そこの紅湯(赤だし)がとてもおいしかったです。

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久しぶり

中国でもブログに投稿できる方法がわかりました。なんとかまた投稿を続けます。

これはテスト投稿のようなものです。

 

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日本にて

久しぶりに日本帰国。おそらく9年ぶり。試しに「上海の風」を見てみると開けた!中国では何度やっても開けなかったのに、すごく不思議。でも手元に資料もなく、また日本でもそれなりに忙しいのでブログの更新もできないが。。。。

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張居正講評「論語」(4)

 原文 有子曰:其為人也孝弟、而好犯上者、鮮矣。不好犯上而好作乱者、未之有也。

 今釈 有子が言った「ある人の人柄が親に孝行で、兄弟を敬愛するような人なのに、上を尊ばない、そのような人はとても少ない。上を尊んでしかも争いを好むような人はいままで存在したことがない」

 張居正講評 有子は孔子の弟子、姓は有、名前は若。父母によくつくすことを孝という。兄によくつくすことを弟(てい)という。鮮は少ない。作乱は逆らい争うこと。

 有子が言った「天下の人で父母や兄のいない人はいない。孝や弟(てい)という良心がない人もいない。人はただ孝や弟ができなければその心は和やかではなく、従順でもなく、子供の頃は上に逆らい、成長してからは社会を乱すようになり、どこまでも増長するようになるのだ。もし人が父母に孝ができ、子供としての道にかなっており、兄に弟であれば、老幼の道にかなっており、その心は和やかで柔順で、何をやっても自然で礼に合っており、もしこの人が行って上に逆らうとしたら、こんなことは絶対に少ないのだ」そもそも上に逆らうという行為は、逆らうという行為の中でも小さなもので、これすら敢えてやらない者が逆に、世の中を乱し争うような事を好んでやるというようなことがあるわけがない。

 

 

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張居正講評「論語」(3)

 原文  人不知而不愠、不亦君子乎。

 今釈  他の人が分かってくれなくても何も恨むようなことはない。君子でないことがあろうか!

 張居正講評  愠は怒るという意味。君子は徳を完成した人。そもそも人に善を及ぼすことはもともと楽しいことだが、もしも人がそのことを知らないせいで、すぐに楽しくなくなるとしたら、それは名声に近づきたいという欠点がまだあり、その徳は完成にはほど遠く、君子とは言えない。まだ名声が顕れず人が自分のことを知らなくとも、泰然として全く不満も怒りもない。これはその心が自己だけを見ており、人が知ることを求めず、その学は本当に内にあり、外に知られることを望まず、見識は広大で、志も高く、けだし本物の徳の完成した人と言えよう。だから君子でないことがあろうか、と言うのだ。そもそも学とは、悦(説)の段階から楽の段階に進み、最後は君子になるという段階に至る。世にも稀な賢者、聖人になれば、それで学の段階が終わるのだ。 

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張居正講評「論語」(2)

 

原文 有朋自遠方来、不亦楽乎

今釈 志を同じくする朋友が遠くから訪ねてくるのは、なんと楽しいのだろう。

張居正解釈 

朋は友人。楽は楽しみ。

学びがあるレベルに到達したら、自然に人から信用され服従されるようになる。そして遠方からでも同類の友人が指導を求めて訪ねて来るようになる。そして自らの徳は途絶えることなく後世に伝えられていく。優れた才能の者に教育をすれば、自然に気持ちは高揚し楽しくなる。これはなんとすごいことだろう。だから「なんと楽しいのだろう」と言うのだ。

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張居正講評「論語」

 最近、本屋で『張居正講評「論語」』を見つけた。張居正は明朝の名宰相。彼には『経世済民書』という名著がある。論語は、儒教の経典。孔子の作品。論語はもう何度も読み、意味もよく知っているのだが、張居正が一体どのような解釈をしたのか興味があった。思わず購入してしまった。時々仕事の合間にでもご紹介します。

            学而  第一

原文  子曰、学而時習之、不亦説乎!

今釈  孔子が言った「学んだ事を時々復習することはなんと悦ばしいことだろう」

張居正解釈 

学とは模倣すること。すべて、知識を押し広めることとたゆまず努力することとは、聖賢の行為を模倣することで善を明らかにしその初めを繰り返すことにある。習とは復習すること。説とは喜ぶこと。

孔子が言った「人が何かを学んでいる時、いつも苦しいだけで全然楽しくないとしたら、あるレベルまで学び終えていないためまだ面白みを見つけられずにいるということだ。すでに学びまた時々復習してその功が途切れないようにすれば、学はあるレベルに到達し、名と実とがしっかりとかみ合い、心も悦ばしくなる。そして自分でもその悦びの気持ちを止めることができない(つまり何もしないでも悦びの状態にある)境地に入る。だから『なんと悦ばしいことだろう』と言うのだ」

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